精神科医療と心理学に関するあれやこれや

初老の精神科医が、精神科医療の現実や心理学的知見などについて徒然なるままに書き散らします

【随想】 あらためて、自分自身の中の植松容疑者を問う

相模原で起きた痛ましい事件については、未だ情報が不十分な状態であり、決定的なことを言える段階ではないと思われます。

 

植松容疑者の精神鑑定結果は先日検察側の行ったものが報道され、精神鑑定上は精神病ではなく、”自己愛性人格障害”という鑑定が出されたということです。この鑑定結果が妥当なものであるかどうか…それを巡ってはまた裁判の過程の中で検証が行われることでしょう。これはあくまでもひとつの可能性を示したものであり、これによって世間の多くの”人格障害”とされる人々に対する新たな偏見が助長されてしまうことは避けなくてはなりません。

 

このような状況ではありますが、事件の衝撃が風化してしまう前に
この事件で自分は何を感じ、何を思ったのか…という点だけは、きちんとまとめておく必要があるようにも思います

 

私自身は、この事件を見聞きしたときのことを振り返ってみると
まず何よりも「起こるべくして起きた事件だな」というのが第一印象でした

これまでにも障害者施設(知的障害者施設と精神・身体障害者施設)の診療に携わる中で、それらの当事者の方や施設職員、ご家族とも接する機会を得てきました。

当然、当事者ご本人も、施設職員もご家族も、それぞれが大変な思いを抱えながら日々奮闘されており、それは本当に頭の下がる行いだと感じます。

しかし、幸か不幸か世の中には様々な価値観があります。彼ら当事者とその関係者・支援者が居る医療福祉の現場を全く知らない人達と会話する中でしばしば聞かれる

 

「そういう人ってさぁ、なにも社会に貢献できないだろ。生きている意味あるのかな?」

 

「その人たちを生かしているお金って、結局俺たちの税金でしょ。気楽なもんだよなぁ」

 

という疑問に対して、私たち医療福祉現場サイドの人間は、相手を納得させられるような返答ができていたでしょうか?
…いや実は内心、心のどこかでかすかにでも「彼らの意見ももっともだよな」と賛同してしまう弱い心を持っていないと言い切れるでしょうか?

 

ここ数年で急速に強まってきた「自分と違う他者への剥き出しの攻撃的な言動」や「反撃に遭う心配のない攻撃対象を常に必要とする心性」「弱者は弱者であることが問題であり自己責任」と言い切るいわゆる「社会的強者」の発言

そういった現実の中で、少しずつ少しずつ、「安心してここに居てもいいんだ」と感じられる居場所を奪われ続ける人たち

 

いや、人のことを言っても始まりませんね。
そもそも自分自身が「自立」とか「社会復帰」とかの美名を言い訳にして、それらの人々を追い込んではいないか? 自分の行為を正当化してはいないか? 「自立」や「社会復帰」は手放しに称賛されるべき価値なのか?

 

思い起こせば、かのナチスドイツの悲劇である「T4作戦」の立案者や実行者は、自分たちの行いをどのように考え、また感じていたのでしょうか?

 

そこには「絶対の正義についての確信」があったのでしょうか? 何か後ろめたさを感じることは無かったのでしょうか? 


自分の中にもおそらく存在するであろう差別主義者に立ち向かうためには、常に…とは言わないまでも週に1回、せめて月に1回ぐらいは自分自身の価値観を疑い、それが他者に与える影響について深く考え、反省してみるという習慣を身につけなくてはならないのかも知れません

 

「あなたは、自分の今やっていることの意味を、価値を、相手や周囲への影響をどのように考えていますか?」…と